2018年8月20日、私は遺跡巡り班の京都巡検に参加しました。千本鳥居で有名な伏見稲荷大社を中心に、豊臣秀吉とその妻ねねで有名な高台寺、圓徳院を訪れました。伏見稲荷大社は、朱塗りの鳥居が隙間なく並ぶ姿がとても幻想的でした。境内全体で鳥居が約1万基あることに驚きました。昼食に稲荷寿司、キツネうどんを食べ、高台寺、圓徳院に行き、百鬼夜行展を鑑賞しました。お寺のあちこちに飾られたお化けの描かれた提灯や、百鬼夜行絵巻などを楽しみました。妖怪の他にも高台寺には桃山時代の美術品、圓徳院にはねねの思い出が詰まったお庭が楽しめます。京都はいい所なのでまた行きたいです。皆さんも是非訪れてみてください。(1回 生・勝本里奈)
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歴らぼ通信10号発刊!
歴らぼ通信10号を、2018年8月1日付けで発刊しました。編集は、武田卓司(歴らぼ編集部代表・3回生)、福田圭佑(3回生)、森安秀夏(3回生)、山本彩菜(3回生)、鳴海邦匡が担当しました。本HPからもダウンロードできますので、みなさま是非ご覧下さい。(鳴海邦匡)
2017年度卒業論文・井上翔太(髙田ゼミ):手紙を書く貧者-産業革命期における貧民の生存戦略-
私の卒業論文は、イギリス産業革命期の「貧者の手紙」についてです。扱った手紙は、公的救済に当て貧者が申請を行う為の手紙であり、被救済権の行使として主体的に救済を求める貧者の声を聞くことができる。「貧者の手紙」の中でも、13年間で31通申請の手紙を出したSoundy家族や、10年間で52通申請の手紙を出したWilliam家族に注目し、家族の貧困問題を考察した。子供に対する救済が救済理由として頻出し、これが戦略として有効であったことがよくわかる。貧者の手紙は、内容が抽象的から枚数を経るごとに具体的になっていき、同情を引くようなレトリックが見られる。また、1834年の救貧法改正以降の手紙は、数も少なくなっていき、ほとんどが救済を拒否される形に終わってることから、公的救済に向けた「貧者の手紙」は18世紀から1834年までの期間限定的な生存戦略の断片であると考えられる。今後は様々な面から、貧者はなぜ手紙を書いたのかを考察していきたい。
図 這いずり人 (出典:『写真と文によるヴィクトリア朝ロンドンの街頭生活』(2015、185頁))
2017年度卒業論文・淺田早央璃(佐藤泰ゼミ):平安貴族の夢-小右記を例に-
私は「平安貴族の夢‐小右記を例に‐」というテーマで、平安貴族が見ていた「夢」に焦点をあて、平安時代の人々は目に見えないモノに対して実際にはどう捉えていたのかについて卒業論文を書きました。卒業論文を書く前に私がしたことは、参考史料の小右記を読みこむことです。小右記は全て漢文で書かれていたのでこの言葉はどういう意味なのか、といったことを一つ一つ調べていくのがとても大変でした。時には本当にこの意味でいいのか悩み、どうしても分からない時は先生に聞きにも行きました。ただ史料の読み込みや分類ごとに分けるといったことをしっかりしていたおかげでその後の論文を書く工程はかなりスムーズに進めることができたので、今では時間をかけてよかったと思っています。それでは皆さん、卒業論文頑張ってください!!
2017年度卒業論文・横田和大(東谷ゼミ):江戸時代における殺人事件の実態―長崎奉行所判決記録『犯科帳』からの一考察
『犯科帳』とは、長崎奉行所が寛文6年(1666)から慶応3年(1867)にかけて発生した事件の判決内容を書き記した史料である。私はこの史料を活用して当時の殺人事件の実態を少しでも明らかにしようと考え、『犯科帳』全11巻の中から208件の殺人事件の判例を抜き出した。そして江戸時代を通しての発生率、事件内容、判決内容、創作と史実との違いという4つの大きなテーマについて法制史に関する文献なども活用して分析した。
その結果、以下のことが判明した。発生率は日本全体、あるいは長崎の地に関係する世情が殺人事件の増減と対応する。事件内容については、口論や酒に酔う、男女間のもつれなど様々な犯行理由があり、犯行に使用された凶器も多岐にわたることが明らかとなった。続いて判決内容では、当時と現代とでは殺人事件への判決の基準は異なるものの、裁きを下す側が事件を精査した上で理非曲直を糺そうとしていたことが窺い知れた。また『大岡越前』や『遠山の金さん』等の時代劇で見られるような場面は、やはり史実ではほとんど見られないことがわかった。
このように、私は多少ながらも江戸時代の殺人事件の実態を明らかにすることができたと感じている。
図:明和4年(1767)に強盗殺人を犯した僧の判例
出典:『犯科帳』3巻(犯科帳刊行会、1958年)、1頁。







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